実家に向かう電車の中、
ようやく読み終わった、ヘルマン・ヘッセ、”車輪の下”。
ようやく、本当にようやくである。
読み始めたのは確か去年の夏くらい。
ときどき思い出したように手に取り、
数ページ読んで、また置きっぱなしにする。
そういうことを繰り返していた。
落ち着いて本を読んでいる時間がなかった、
と言うわけでは無かった。
ただ単に読み続けるのが、非常に困難であった。
主人公の年齢。
遠い時代の、俺自身の記憶。
そのオーバーラップ。
同時に思い出される苦い記憶。
苦い、か?
ちょっと違うな。
若く未熟な主人公と、
同世代であった頃の自分自身に感じる寂しさ。
悲劇悲劇って書かれているけどさ。
結末はともかくね。
果して主人公の生き方は悲劇だったのだろうか。
約束された未来へ続く教育制度。
が、そこに所属することに伴うストレス。
自身の否定。
そこから抜け出し、まさに”生”を体現しているような生き方へ。
生きる目的を、”成功する”と言う価値観に置けば、
確かに、教育制度から逃げ出したことは間違いなんだろうけどさ。
生きることを楽しむ、と言う価値観から言えば、
生まれ故郷に戻り、機械職工になるって言うのは、
間違っているとは思えない。
この小説の紹介文を読むと、強調されるのは、
全体の前半部分、ストレス多き教育システムの中での生活、
そこからのドロップアウト。
が、後半の自然と人の中で自分を取り戻して行く部分って、
ほとんど紹介されていない。
むしろ、そっちのほうがイキイキしてていい気がするんだがな。
さて、読み終わって。
悲劇、と言う形で話は締めくくられている,
が、結果から言えば、
今なら地方新聞の下の方にちょこっと小さな記事が載るか、
載らないかくらい。
あまりにもありふれた事件の一つ。
人はその記事を読んで、ちょっと眉をしかめるかもしれない。
でもすぐに忘れてしまうだろう。
その程度のこと。
作者の自伝的な小説だと言う。
が、おそらく多くの男性にとっては自身の青春、
それ以前を思いだされるだろう。
そして、問われる。
自分の生き方は?と。
多分ね。
少なくとも俺は、俺自身の行き方を考え直したよ。
もっとも時は戻せないけどね。
で。
俺は間違った生き方だったとは、思っていないさ。
昔はともかく、いまは楽しくやってる。
それで十分。