姪っ子を抱っこする俺

実家に帰って妹の娘を見て来た。
ちっちぇー!
顔なんて、頭なんて、片手の中にすっぽり入ってしまう。
手が特に小さい。
着いたときには寝ていたときだった。
が、俺の到着で目が覚めたのか、泣き出す。

忙しい仕事の合間をぬってようやく娘を抱っこできた、妹の旦那と妹が、
二人でおむつを取り換えて、まだ泣き止まなくて、
妹がおちちをあげて、ようやく大人しくなる。
妹が、背中を優しくたたいて、さすって、げっぷを出させる。
げっぷが出るまではおでこにしわ寄せて、
妙に苦しそうな顔していたが、
げっぷが出た後は安堵の表情。そのまま目を閉じて、大人しくなった。
怖くて、触れなかった。最初は。
寝ているところをほっぺたを指先で触る。
それに気付いたのか、手でいやいやする。
慌てて手を引っ込めた。
左手で頭から首を支え、右手で腰の当りを持つ。
そっと、そーっと。
その姿勢で、俺が動けない。
本当はもう少し上に上げてやりたいところなんだけど。う、動かせない。
俺が着く前の晩、泣いて泣いて、泣き止まなくて、
妹と妹の旦那は寝不足だと言っていたが。
二人してお風呂にいれてる様子は、非常に楽しそうだった。
姪っ子もお風呂に入ってるのが気持ち良いのか、非常に柔らかい表情。
なーんか、もう。
たくさんの言葉が出て来るのに、まとまらない。

変ったな

駅に着く。
乗り換えまでに時間があったので、改札から、外へ。
ずいぶんと変ったもんだ。
実家にはしょっちゅう遊びに来ていたのに、
昔よく遊びに来ていた街の中心部に来るのは、ずいぶん久し振りな気がする。
少し歩いて気付く。
こんなに淋しい街だったっけ?





多くの商店が、シャッターを降ろしたまま。
今日は日曜日だぞ?
駅の反対側にジャスコが出来て、そっちは賑やかだった。
そうか。負けちゃったんだな。
すぐに乗り換えの時間で、また駅に戻った。

ヘルマン・ヘッセ、“車輪の下“

実家に向かう電車の中、
ようやく読み終わった、ヘルマン・ヘッセ、”車輪の下”。
ようやく、本当にようやくである。
読み始めたのは確か去年の夏くらい。
ときどき思い出したように手に取り、
数ページ読んで、また置きっぱなしにする。
そういうことを繰り返していた。
落ち着いて本を読んでいる時間がなかった、
と言うわけでは無かった。
ただ単に読み続けるのが、非常に困難であった。
主人公の年齢。
遠い時代の、俺自身の記憶。
そのオーバーラップ。
同時に思い出される苦い記憶。
苦い、か?
ちょっと違うな。
若く未熟な主人公と、
同世代であった頃の自分自身に感じる寂しさ。
悲劇悲劇って書かれているけどさ。
結末はともかくね。
果して主人公の生き方は悲劇だったのだろうか。
約束された未来へ続く教育制度。
が、そこに所属することに伴うストレス。
自身の否定。
そこから抜け出し、まさに”生”を体現しているような生き方へ。
生きる目的を、”成功する”と言う価値観に置けば、
確かに、教育制度から逃げ出したことは間違いなんだろうけどさ。
生きることを楽しむ、と言う価値観から言えば、
生まれ故郷に戻り、機械職工になるって言うのは、
間違っているとは思えない。
この小説の紹介文を読むと、強調されるのは、
全体の前半部分、ストレス多き教育システムの中での生活、
そこからのドロップアウト。
が、後半の自然と人の中で自分を取り戻して行く部分って、
ほとんど紹介されていない。
むしろ、そっちのほうがイキイキしてていい気がするんだがな。
さて、読み終わって。
悲劇、と言う形で話は締めくくられている,
が、結果から言えば、
今なら地方新聞の下の方にちょこっと小さな記事が載るか、
載らないかくらい。
あまりにもありふれた事件の一つ。
人はその記事を読んで、ちょっと眉をしかめるかもしれない。
でもすぐに忘れてしまうだろう。
その程度のこと。
作者の自伝的な小説だと言う。
が、おそらく多くの男性にとっては自身の青春、
それ以前を思いだされるだろう。
そして、問われる。
自分の生き方は?と。
多分ね。
少なくとも俺は、俺自身の行き方を考え直したよ。
もっとも時は戻せないけどね。
で。
俺は間違った生き方だったとは、思っていないさ。
昔はともかく、いまは楽しくやってる。
それで十分。